試される大地から

furaiboが送る技術ブログ。プログラミングのTipsなど書いていきます。

自己責任とは最低最下の言葉である


技術ブログなのに、半ば社会的(?)な話題について書き残したいと思います。それは、「自己責任」という言葉についてです。



僕は「自己責任」という言葉が大嫌いです。これは他者に対する思いやりを欠いた人間の尊厳を大きく踏みにじる言葉です。そして、はっきりと言いましょう、「自己責任」を嬉々として語ることはもはや犯罪的な行為であると。



自己責任はいまや至る所で聞かれる言葉となりました。希望する大学に行けなかった、就職できなかった、鬱病になった、貧困から脱出できない・・・。2chまとめサイトに行けばそうした苦難に遭う人の話(あるいは自分語り)についての記事が出てくるのですが、そうした記事の抽出レスやコメントには、必ずと言っていいほど「甘え」、「自己責任」という言葉が聞かれます。



しかしながら、本当には自己責任ではないようなところでさえ、自己責任が盛んに叫ばれるので僕は大きな違和感を感じています。






希望する大学に行けなければ、それは自己責任ですか?
就職できなければ、それは自己責任ですか?
ブラック企業で働いて体調を崩せば、それは自己責任ですか?
貧困に喘いでいれば、それは自己責任ですか?
鬱病にかかれば、それは自己責任ですか?




極端に金銭感覚や社会常識が欠けていただとか、自己管理がまるでできないからとか、ギャンブルや女ばかりにうつつを抜かしていただとか、そういった理由で貧困に転落したなどという理由ならば自己責任という言葉も全面的にとは言わないまでも同意はできます。



しかし、最近の論調を見るに、自分ではどうにもならないようなことにまで自己責任という言葉を被せて、弱者を叩き喜ぶこと、社会の矛盾を直視しないことの口実にしているようにしか見えないのです。



僕自身、自己責任という言葉がこれほど広がるようになった原因はいくつかあると思いますが、ここでは2つ挙げておきたいと思います。



日本において誤った「努力」への認識が蔓延していること

政治家が、政治における失策をごまかすための方便として「自己責任」を言い始めたこと




日本での誤った「努力」への認識


例えば、大学のテストの過去問の話題が2chまとめサイトで散見されます。「自分は過去問とかは持ってなくてちゃんと勉強したけど、あまりいい点はとれなかった。でも周りは過去問を持っていて、楽していい成績を取っていた」などという話はよくあることですが、こうした話の時に「過去問持ってないお前が悪い」だとか、「友達がいないのが悪い」とか「コミュ障なのが悪い」、しまいにはこんなところでまで自己責任を問うような意見が必ず出ます。



全くおかしなことです。結果はともかくまじめに勉強してテストの対策をしたことを褒める理由はあっても、過去問を持っていないことと、それに付随する個人の人格を叩く理由はまったくないからです。



お前が悪い、自己責任だなどと臆面もなく他者に向かって発する人間は、本来的な個人の責任と結果責任とを完全に混同しているのです。結果が出ない人間は、やり方が悪い、要領が悪い、努力が足りない、自己責任だと全てにケチをつけ批判するのです。例え、きっちりとプロセスを踏んでかつ努力をしていたとしてもです。



身も蓋もないことを言えば、そういった人間は「結果を出した奴がエライ」と考えているんですね。これは日本で近年蔓延している「努力すればするだけ結果が出る」などという誤った努力に対する認識から派生した考え方と言えます。



この考え方は非常に危険です。なぜならば「努力すれば結果が出る」という考え方は裏を返せば「結果が出なかった人間は努力をしなかった人間」ということになるからです。



このことが恐らく結果の出ない人間に対して自己責任論を押し付ける根拠になっていると考えられます。そして同時に、かえって結果を出すまでのプロセス(努力)が軽視される原因になっているように思います。ズルでも何でも結果を出せば、大して努力していなかったとしても、社会的に認められ、努力したものとみなされ、全てが肯定的に捉えられるからです。



大学生のテストの過去問の話は例えるならば、ルールに則って投資をしているがあまり儲かっていない個人投資家がいて、そうした個人投資家に大してインサイダー取引をして莫大な利益を得た機関投資家が「儲かっていないのはインサイダーをやらないからだ、お前が悪い」などと言っているようなものです。



ズルをする人間、他人を利用することばかりを考える人間、嘘をつく人間、モラルのない人間・・・こうした人間が結果を出すのを「要領がいい」といって社会的にもてはやす風潮、そして個人に生じた不利益を、個々人の情状を斟酌することなく全て自己責任に帰して冷たく突き放すような考え方は、どちらも誤った努力に対する考え方から生じているのです。



政治家の、責任逃れの方便としての「自己責任」


近年の日本の格差の拡大、社会保障での不安を見るに、日本の政治が失敗を繰り返してきたことは明らかです。政治家は議席を確保せねばならず、そのためには長期的にはデメリットが大きくとも有権者からの受けがいい政策(特に増税の回避)をとらなければならなかったからという事情はあるでしょう。しかし、そうしたその場しのぎの政策を続けている内に、今や日本の人口動態は急速に劣化し、少子化から財政面もはや手の施しようがないほどに悪化してしまいました。



そうした中で、グローバル化(実質的なアメリカ化)のなかで、自己責任という言葉が徐々に市民権を得るようになります。政治での失策を覆い隠し、自らが死ぬまでに責任を追求されずに甘い汁を吸いつつ逃げ切りたい政治家、そして人件費をコストと考え、できるだけ人件費を削減したい企業群から構成される経団連・・・。こうした日本の中枢の人間がタッグを組み、十数年にわたって自己責任という言葉を社会に発信し続け、大勢の人間を洗脳しようとしてきたのです。そして、それらの取り組みはどうも大きな成功を収めたように見えます。



社会保障費が削減されても、政治家は責任を追求されることなく、一方的に一般市民は自助努力を求められるようになりました。不景気で企業からの内定を得られなかった大学生に対してはネット上で、コミュ障、自己責任と言った容赦無い罵声が浴びせられます。ブラック企業で働かざるを得ず、体を壊したり鬱を患ったりでもしてネット上で相談しようものなら「甘え」・「そんな所で働くのが悪い」などと言われます。生活に困窮している人間が生活保護を申請してもなかなか通らず、申請が通った人たちも、ネット上で「生活保護費を減らせ」といった批判にさらされます。



重大な社会問題でさえ自己責任・自助努力・甘えで片付けられるようになってしまいました。これらを言われた側は反論せずに押し黙るしかありません、すべてのことで責任をとり、常に努力し、甘えが全くない人間などいないからです。社会的な弱者は憂さ晴らしにもっと弱い弱者を「自己責任」を押し付け叩きます。一方で、政治家や企業のトップたちはそれを尻目に高額の報酬を得、やりたい放題で責任など何一つ取っていないにも関わらず、保身のために「自己責任」を吹聴します。



そして政治・企業のトップたちはおそらく今もそしてこれからもこうした社会の失敗の責任を何一つ取ることはなく、この世を去るでしょう。その後、日本がいよいよ立ち行かなくなり、失敗の責任と批判は恐らく割りを食ってきたはずの30, 40代の人間に集中することになるでしょう。



このように自己責任という言葉は、強者にとっては、失敗を覆い隠し、責任逃れをし、弱者から搾取するための言葉です。そして同時に弱者にとっては弱い者いじめをするための、格好のフレーズでもあるのです。





最後に


社会には、目先の利益を捨ててその社会のために貢献し、汗をかく人間がいます。そうした人間の善意によって社会は維持されています。自己責任を連呼する冷たい社会では、こうした人間は減っていきます。すべてを自己責任で片付け、いざ自分が困窮した時に助けてくれない薄情な社会では社会貢献をしても全く何のリターンもないからです。ギブ・アンド・テイクが成り立たないところに身を投げ打つ人間はいないのです。



自己責任を多くの人間が唱えることで、救済されなかった人間はその社会に恨みをもち、その社会から立ち去るか犯罪を起こすようになります。社会不安が増加することで社会に貢献する人間がどんどん減っていき、社会全体が回らなくなっていきます。それらは結局巡り巡って自己責任を唱える人間自身の首を締めることになります。そして自己責任を押し付ける社会がどんなに衰退しようと、どんな不利益が生じようともそれは社会自身と自己責任論者の「自己責任」です。



自己責任を唱える前に、今一度「情けは人のためならず」という諺を思い出してみるべきでしょう。